無限の可能性
私達には生まれた時は無限の可能性があります。
筑波万博で始めてハイポニカ栽培で出来たトマトの巨木を見たとき私はそう直感しました。このトマトが証明するように生命体は環境さえ整えば無限の能力を発揮できるのです。トマトですらこんなになるのですから、私達各個人が持ち合わせた能力、才能を思う存分発揮できたらどんな素晴らしい世界になる事でしょう。想像するだけでも、なんだか楽しみですね。
どんな人でも、素晴らしい能力や才能を持っていますが、多くの人は大人になるに従って、知らず知らずの内に自分で自分の限界(壁)を作って可能性を閉ざしてしまっているのではないでしょうか?
地球の常識
成長して大きくなるに従い、社会の常識(教育・科学・宗教・マスコミ、等)によって恐怖や不安、競争心、良い悪いなどの判断などと共に自分の周りにも「常識」と言う壁を築き上げていきます。 知識を得る事はいいのですが、知識から外れた事や知識で判断つかないと、不安や恐怖心を抱くようになってしまうのです。今の常識からはみ出すとどうなるでしょう。「非常識」と聞くと何か悪いイメージがありませんか?「超常現象」と聞くと何か怪しいイメージがありませんか?
壁の中から、はみ出した事は悪いイメージが付きまとい、悪い捕え方をされがちです。そのついつい感じてしまう「イメージ・捉え方」がその人の可能性を狭めてしまっているのではないでしょうか。知らず知らずの内に「不安や恐怖」という感情が私達に植え付けられてしまっているので、例え常識の壁に穴があいていようとも中々そこから抜け出す勇気が出ないのです。しかし、地球に住む人間が作り上げた「常識」は宇宙の中では真実なのでしょうか??常識と言う物は、あっという間にもろくも崩れ去ってしまう事は皆さんもご存知の通りです。例えを上げるときりがありませんよね。
- 天動説から地動説へ
- 不可能と言われた超音速飛行から超音速飛行へ
- 100m走での10秒の壁
つまり、その時の地球の中の一時的な共通認識「井の中の蛙」ではあっても宇宙の真実ではないのです。
宇宙の常識
宇宙の真実(常識)ならば崩れる事は無いはずです。
そうであるなら、地球の常識に従って生きていると、無理が生じてきそうですね。宇宙や自然の真実・法則(常識)が分かるのならば、それに従ったほうが楽に生きられそうではないですか。人間はその一部なのですから。
もちろん、ある程度の共通認識や価値基準がないと集団社会生活に差し障りが出てきてしまうので何でも自由に好きな事なら、反社会的な事でもやって良いと言うのではありません。知識は必要で有用でありますが、問題はその先の自分自身のものの考え方、生き方ではないでしょうか。自分の無限の可能性まで閉ざしてしまう必要は全く無いのです。
自分を信頼して各人が自分の才能(最も好きな事や最も得意とする事、直感で惹かれる事)を最大限に表現して行く事こそ、自然の中で人類全体としても上手く調和して行く方法ではないでしょうか。 そんな事言ったって宇宙の常識なんか分かるわけ無いじゃない?とお思いですか。それは既に自分の可能性を狭めている証拠です。
宇宙の常識はそこらじゅうに転がっているはずです。
何しろ、私達自身がまさに小宇宙なのですから・・・。
ちょっと壁を崩して、視野を広げてみましょう。
そして宇宙の常識に挑んで見ましょう。
それは私自身(小宇宙)を見つめる「私とは何か?何で私は存在するのか?」という古来からの人間の普遍的疑問にも通じる問いなのです。
ですから、古来より実に多くの人達がこの問いに答えを求めていたのです。
これが分かれば、幸せに生きるヒントが見つかってくるかも知れませんね。では早速色々と見てゆきましょうか。
フラクタル図形
皆さんはフラクタルと言う言葉をご存知でしょうか?
1960年代にフランスの数学者マンデルブローにより導入された幾何学の概念で、部分が全体と相似(自己相似)となるような図形をいいます。

こうした原理をもとにコンピューターでシミュレーションし、結果画面にあらわれたのは、マンデルブロー集合という終わることのない無限に込み入った複雑な模様だったのです。人によってはこれを神の原理を発見したと言います。そしてマンデルブローは「自然はフラクタルである」、つまり自然の形成原理は「自己相似性にある」と言ったのです。一度フラクタルの目を持つと自然界の至る所、そして宇宙にもフラクタル図形を見いだす事ができます。良く観察すると、どの一部にも全体の構造が見出せるのです。
珊瑚の空間分布、樹木の分布、神経の樹状突起、気管分布、血管分布、大脳の溝、癌の形態、高分子蛋白の立体構造、リアス式の海岸線や雲の形、ブロッコリー、玉ねぎ、宇宙の構造・・・などなど・・に見る事ができます。
例えば次の図形の全体構図をそれぞれに枝に置き換えてみると下段図形のようになっていき、更にその小枝に全体の構図をどんどん置き換えてゆくと、図のような生物的デザインが完成します。
線の真ん中3分の1を三角におる、その線をまた真ん中3分の1でおる、どんどんつづける・・・すると。複雑な雪の結晶のようになります。
現象世界だけでなく、時間のフラクタルも考えられます。
今この一瞬の中に、過去も未来も全て含まれていると考える事も出来るかもしれないし、人の一生と宇宙の一生が同じ式で運行されているかも知れません。
母親から娘(母親)へと連綿と時間軸にならべてみると、まるでロシアの入れ子人形
(マトリョーシカ)のようになります。
マトリョーシカ:ロシアの民芸品で入れ子式になった人形。胴のところで上下に分かれ、中からひと回り小さな人形が次々と出て来るように作られています。
空間のフラクタルを考えると、「ここ」に無限宇宙が含まれていると考える事も出来ます。
人体は小宇宙と呼ばれるのもその為かも知れません。 そして、何処にいても宇宙の全てが含まれていて、何処にいても宇宙の中心にいると言う事になって来ます。
意識のフラクタル
意識・思考もフラクタルで考える事が出来ます。
2枚の鏡を平行に向き合わせて覗き込むと、無数の自分の像が写り、この像は自己相似図形になっています。現実には(物理的には)無限は存在しないけれど、一瞬にして無限が生じてきます。 人が無限を認識するのも、同じ構造が意識の中にあるからでしょう。私達が外界を認識する時、意識に写った外界の中には自分の意識の姿も写っている、つまり世界と自分は一種の合わせ鏡になっているのかも知れません。この合わせ鏡の世界では「ここ」に「無限に広がる世界の全て」が存在しています。 日常生活は、言語を中心に営まれている(思考されている)事が脳波分析で解かります。言語は左脳にある言語中枢が司っており、日常生活では言語中枢を中心にしたβ波が見られているのです。 つまり、日常生活は言語(思考)によって再構築された概念の世界で営まれていると言って良さそうです。この状態は日常意識と呼べるでしょう。外界は右脳にイメージ(感覚)として写っているけれど、それを深く意識することはなく、概念(考え)を通してモノを見ている状態なのです。この状態では自然界に自分の意識を感じられません。 私達が自然を見てそこに自分の意識(自己との一体感)を感じるのは、概念を離れて(思考を鎮めて)「モノそのもの」を見る状態になった時です。世界と、世界内にいる自分を意識している状態と言えるでしょう。自分が外界(自分自身)に溶けて「全て1つに感じる」、至高体験と呼ばれる時の意識状態はこのような物なのかも知れません。
細胞意識のフラクタル
私達個人が全員集まって、地球上で人類という種族を形成しています。
そして、個人個人にも意識があるように、人類全体にも大きな意識があるのです。
これをユングは集合的無意識と呼びました。これもフラクタルですね。
同じよう(相似象)に1つ1つの細胞がより集まって、1人の人間の体を形成しています。 フラクタルで考えると、1つ1つの細胞にも意識があると考えられます。当然の事ながら1人の人間には意識があるので、これは細胞の意識から見ると集合意識に相当しますね。
私達人間の体は一番最初は受精卵というたった一つの細胞です。
細胞として考えた時、この受精卵には無限の可能性が秘められていますね。
このたった1つの細胞は分裂を繰り返して10か月もすると各々別々の機能を持った細胞集団として1人の人間になるのですから・・・。
こういった意味で、初めの1個の受精卵細胞は全身に浸透しているとも言えます。
細胞分裂を繰り返していった「胚」は、体を構成する器官を形成する段階に入ると、外胚葉、中胚葉、内胚葉とよばれる3種類の細胞群にわかれていきます。はじめは同じで平等であった細胞達に個性が出てくるのです。
外胚葉からは神経と皮膚、内胚葉からは消化器官や呼吸器官、中胚葉からは骨格系,筋肉,生殖器官,腎臓などに各々さらに分化して行くのです。こうして元はたった1つの細胞から最終的に独自の機能・特徴をもつ細胞達に分化して行くのです。
ここで細胞達は自然の流れに身を任せ、それぞれの能力・個性を伸ばしてゆきます。
その結果、細胞達全体としても完全に調和の取れた一人の人間の体が形作られてゆくのです。
各々の細胞達がそれぞれ自我を持って「良い悪いと判断」し出して、皆が一律に「かっこいい」?脳細胞になりたい、とか「汚い」?膀胱の細胞や大腸の細胞になんかなりたくない!!なんてゴネル事はないのです。そんな事してたら人間の体が出来上がらず、結局は全員死んでしまいます。
ちゃんと全体を束ねる大きな作用(集合意識)がDNAを通して物質次元に作用し、調和をとっているのです。
例え自我で考えて「悪く」?思える事でも、その部分が存在しなければ全体としても存在・機能する事が出来ません。
つまり、ここで言えば膀胱や大腸が無ければ人体として存在・機能・生存出来ないのです。
本当は「良い」も「悪い」も無いのですが、人(自我)が考えて価値判断をしているだけなのです。
同じように細胞の相似象として私達人間を考えてみると、各人が心の奥底から湧いてくる心(集合意識)の声(直感・右脳)に身をゆだね、やりたいと思う事、好きと感じる事、得意とする事、(それが人類全体を束ねる大きな作用、つまり集合意識からのサイン)を自己表現して行く事こそが、人類全体として見た時にも、完全に調和の取れた状態になるのではないでしょうか。
人間が(左脳で)考えた「常識」と言う目に見えない壁で、心の声(右脳)から自らを切り離してしまうと(集合意識のサインに従わないと)結果的に相似象である人類全体の調和も崩れてしまい、最終的に「人類」として存続出来なくなってしまうかも知れません。
同様に、相似象である「細胞」の世界でも同じように不調和が生じて来ると「肉体」の不調和、つまり(我々が直面している)「病気」という事になるのではないでしょうか。
こう考えると、集合意識、潜在意識からのひらめき(これこそが、各人が思う、「やりたい事」「好きな事」)に抵抗せずに身をゆだね、自分の好きな事を楽しんでやっている人はストレスも少なく病気にもなりにくいのが分かるような気がしませんか。
宇宙のフラクタル構造
ミクロの世界での原子核と電子の関係は、マクロの世界での地球と月の関係や、太陽と太陽系の惑星達の関係とフラクタルな構造(相似象)になっています。中心を原子核・地球・太陽として、各々の周りを電子・月・太陽系の惑星達がグルグル回っている同じ構造関係です。
オーストリア生まれの理論物理学者で「物質の究極」が「波動」であることを「波動方程式」で証明し、ノーベル物理学賞を受賞したシュレーディンガーはこんな事を言っていす。
「意識を持つすべての存在は、『万物の中の万物』なのです。私達、各々の生命は、世界の現象の単なる一部分ではなく、現象全体を成すものだと言う事も出来るのです。」
つまり、「自己を超えた主客合一の境地=フラクタル」と言い換えることも出来ます。
インドのウパニシャッド哲学では、宇宙の本質としてのブラフマン(梵)と個人の主体的本質であるアートマン(我)の2つは同一のものと見たたて「梵我一如」と言い、我は、東方にあり、西方にあり、地上にあり、天上にあり。 我は、全世界なりと言います。
実は、彼の波動方程式のアイデアはこの古代インドの聖典ウパニシャッドの思想に啓発されて生まれたのでした。
マンダラ
更に、宇宙の構造を密教では曼荼羅(まんだら)というフラクタルな図形で表現しています。
マンダラとは古代インドのサンスクリットが原語で「本質を表示(表現)せるもの」と言う意味です。どちらも中心に座すのは「大日如来」と言う宇宙最高仏です。
これは「シェルビンスキーのカーペット」と呼ばれるフラクタル図形とそっくりです。
正方形を六分割して真ん中を切り取る作業を繰り返してゆくと全体として次のようなフラクタル図形ができて、無限に入り込むことができるのです。
胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の二つは対になっていて、両界マンダラと呼ばれています。日本の密教寺院では大抵、東に胎蔵界マンダラを西に金剛界マンダラを掛けています。胎蔵界とは、この世あの世含めての大宇宙(インド哲学:ブラフマン・梵)で、金剛界とは心の中の宇宙、仏の世界(インド哲学:アートマン・我)です。中心に座す仏様はいずれも大日如来で、密教では仏は大宇宙にも、こころの中の宇宙にも遍在していると考える。マクロ大宇宙とこころのなかのミクロ宇宙が完全に一致した状態が悟りの状態で ブラフマンとアートマンの一致「梵我一如」あるいは日本では「入我我入」などと言います。つまり密教では、フラクタルな宇宙構造を「入我我入」という言葉で表現しているという訳です。
これは「人間は、大宇宙(大日如来)の中の一部であると同時に、大宇宙のすべてが、含まれている小宇宙(仏)である。」つまり、私は宇宙に包まれていながら、同時に宇宙の何処にも私を見出せる。「各人は宇宙のフラクタルである」と言っていたのです。「自分」と「自分を包み込む宇宙」は同じ相似構造をしているということですね。
この世界は自分次第?
自分も周りの世界も同じという事は「自分が変わると周りの世界全てが変わってしまう」ではないですか!
言い換えると「周りの世界は自分次第で決まるのであり、自分自身を周りの世界に見ている」と言う事になりますね。この世界では自分自身が幸せであれば、周りの世界も幸せな世界が広がって来る仕組みだったのです。
外に幸せを求めても、自分が恐怖や不安で満たされている限り、何処にも見つからないと言う訳です。
幸せの青い鳥
世界中で親しまれているメーテルリンク作の「幸せの青い鳥」というお話があります。
幸せの青い鳥を探してチルチルとミチルは色々な世界をさまよって行きます。散々外の世界を探し回るのですが、何処にも見つける事が出来ません、疲れ果てて家に戻ってみると、最終的に自分の家に幸せの青い鳥がいた事に気付いたのでした。 この物語では、捜し求めていた「幸せ」は自分の外側にあるのではなくて、自分の心の中にあったのだと言う事を示しているのです。この普遍の真理(宇宙の法則)を解いているからこそ、世界中で多くの人たちに受け入れられて来たのではないでしょうか。
幸せも不幸せも自分次第だったんです!周りの世界は、まるで内面を映し出す鏡の国(合わせ鏡)のようですね。
自分で意識的であろうと、無意識であろうと、限界の壁を作るとその限界の中の世界が周りに展開してきますね。この限界の大きさがその人の「器」と言う事ではないでしょうか。
皆、自分の器にピッタリあった世界を生きていたんですね。
その壁が、広ければ広い程、その人の周りに展開する世界は大きく可能性も広がる、つまり「器が大きい」という事だったのです。 さらに進めて極論を考えて行きましょう。
その壁をどんどん広くして行って、とうとう一切無くなってしまった時、思考が停止(思考する事=限界を設定する事)し宇宙に溶け込み、全てと1つになってしまうのではないでしょうか。「私」という限界も消失して「無私(無我)」の境地に至り、この「宇宙全て」に溶け込んでしまうのではないでしょうか。
限界を超えた人達
実際、常識の壁・限界を超えて行き、「無私の境地」に達した超人達の多くは、「宇宙全てと1つになる」体験をしていたのです。
その時「幸福感」や「無償の愛」を感じると言います。では、ここで少し紹介して行きましょう。
ジャック・マイオール
上海生まれの海底探険家
素潜り(酸素ボンベをつけずに)世界記録保持者でイルカとの会話もできます。人間は「50メートル以上」潜ると水圧に耐えられず、死んでしまうと考えられていた当時、酸素ボンベ無しで人類ではじめて100メートル以上の
潜水に成功しました。この潜水を行う時「上手く行かないかもしれない」とか「事故が起こったらどうしよう」と言った不安や恐怖があると必ず失敗する。
かといって「記録を出すぞ!」と思っても上手く行かない。何も考えず、頭真っ白にすることが重要なのです。 つまり、思考を停止させて自我を無くしていたのでしょう。
脳細胞は筋肉の20〜25倍の酸素を使ってしまうから極力働かせないのがいい。
更に、呼吸数や心拍数を減らし酸素消費量を極力抑えてゆく。そのためにジャック・マイオールは、ヨガを実践し呼吸・心をコントロールしていました。
自分を信頼し、全てに完全に身をゆだね潜水してゆくと、深海50メートルを越える頃「不思議な感覚」を体験していたのです。 「海に体が融け込み、水と自分が一体化して体の感覚が無くなる。この時、とても気持ちが良く、幸福感に満ちあふれているのです。」
ダグ・スコット
最も困難だと言われるエヴェレスト(8848m)南西壁の登頂に成功した不死身の登山家
「高い山では危機感知能力が高まるんです。エヴェレストの頂上まで後僅か数百メートルと迫った辺りで、思考は突然自分の体から離れ、左の肩辺りから別の自分によって歩く方向を指示されているような気がしました。」
思考が止まって直感が働いていたのでしょうか。「そして上のほうから私の進行を見下ろしているように、そのまま進むと雪庇を踏み抜いて東壁側に落ちてしまうぞ!と警告してくれるのです。」 高い山を登った後、ベースキャンプで休んでいると、一種の恍惚感に浸り何とも言えない良い気持ちになるのです。これは禅の修業中に起きる無の境地と同じ物かもしれない。
この時ダグ・スコット「全てと1つになる」体験をしていたのです。
エリザベス・キュブラーロス
シカゴ大学精神医学部教授の経歴もある世界的に著名な科学者で「死の臨床」という分野では世界の第一人者
ロス博士は色々な臨死体験(意識不明状態で死の淵をさまよった結果、奇跡的に助かった人達の語る体験)や多くの子供達の死に関わるうちに魂の不死と死後の生を確信するようになりました。「私達が肉体を離れる時、私達は存在自体が超意識になるのです。その後筆舌に尽くしがたい程の光が見えてきます。この光をほんの少しでも見た瞬間に
全知を得ます。そしてその光に近づくと無条件の愛にスッポリ包まれるのです。」
人間は死を迎えると、肉体を離れた意識体が宇宙(光)と1つになってゆくと言っています。
阿波 研造
弓道の全国大会で百発百中で優勝し、前人未踏の記録を打ち立てた名手
「弓を射ようとする時、無心の境地にまで集中力を高めると全てが一つになり弓矢、的、自分との区別は存在しなくなる。」
ここで弟子へリゲルと師範 阿波研三のやり取りを少し紹介しましょう。
「的」は60メートルも先にあり弟子ヘリゲルは途方にくれていました。
ヘリゲル「矢を的に当てるためには、どう狙えば良いのでしょうか?」
師 範「その狙うということがいけない。的のことも、当てることも、他のどんなことも考えてはいけない。
ただただ、無心になるのだ。そうすれば的が自分の方に近づいてくるように思われる。そうして、的は自分と一体になる。
的と自分が一体になれば、矢は自分の中心から放たれ、自分の中心に当たるということになる。故に、あなたは的を狙わず、
自分自身を狙いなさい。それが出来れば、あなたは宇宙になれる。弓術は技術ではない。理屈や論理を超越したものなのだ。
弓を引いている自分は宇宙と一体となるべきであり、すなわち禅的生活なのである。」
しかし、弟子ヘリゲルは信じられない。
師 範「あなたは、どうやら信じられないようだな。ならば最後の手段を使おう。あまりやりたくはなかったのだが・・・」
師範はヘリゲルに、その夜あらためて訪問するように言った。そして、夜が来た・・・師範は黙って、ヘリゲルを真っ暗な道場につれていく。
師範は1本の蚊取り線香に火をともし、的の前においた。
そして、師範は弓を引き絞り、2本の矢を立て続けに放った。
「発止(ハッシ)!」という音がなり、2本とも的に当たったようである。
師範は、ヘリゲルに的を見に行くようにうながした。
彼はそこで、恐るべき光景を見たのである・・・・。
なんと、1本目の矢は的の中心に当たり、2本目の矢は1本目の矢を真っ二つに引き割いて、的の中心に当たっていたのである。
師 範「こんな暗さで、的を狙うことができると思うか?これでもまだ、あなたは、狙わずには当てられないと言い張るつもりか?」
その後ヘリゲルは疑う事も、考えることもやめ免許状をもらうまでに上達したのです。
ヨガの行者達
無心の境地に至たった時、今まで気がつかなかった肉体を超えた大きな「自分」を認識し「意識の拡大」つまり自分が広り周囲と一体化するという体験をする。 変性自我(エゴ)からくるさまざまな物質的な囚われから開放され、神あるいは真我を物質(肉体)レベルで体現し「すべての存在物がひとつの大生命であるということを悟る」のです。
脳波のシンクロナイゼーション
瞑想家を研究する科学者達は瞑想家の意識が深くなり、非常に明晰な精神状態に達した時、彼らの脳波は脳の両半球とも全く同じであり、シンクロナイズしている事に気付きました。 普段、私達の脳の両半球は、異なる周波、振幅の脳波を出しています。両半球の脳波がシンクロナイズすると、左右脳波の「山」と「山」が一致して二つの振幅が合わさり脳波は重なって「元の波形の2倍の高さ=2倍の振幅」の波形になります。 つまり脳全体に効果的なゆらぎを生じ結果的に高度な秩序で脳の再編成が起こりやすくなります。
脳のシンクロナイゼーションに関する世界一の権威は、プリンストン・バイオフィードバック研究所の所長レスター・フェーミです。彼は脳の活動と行動との関係を注意深く観察し、脳半球のシンクロナイゼーションは「経験から言って『体験との一体化』つまり『入り込む事』と関係している」と確信しました。
そしてこう言ったのです「体験から切り離されている感覚ではなく、より体験の中に入り込み『体験と一体化している』と感じる傾向があります。そして、注意の及ぶ範囲が拡大し、自意識が低下してより直感が働く気がするのです。」
量子力学
ここで今度は最先端物理学である量子力学における世界観を見てみましょう。 物質の最小単位(ミクロ)を追求する核物理学では、原子が発見され、ついで原子は中心となる核(原子核)と周囲を回る電子で構成されている事が分かりました。
ここで、驚くべき事がわかったのです!
それは原子核と電子の相対距離の比率です。 分かり易く我々の世界に例えて見ると、原子核をサッカーボールの大きさにして東京駅に置くと、それを中心にして回る電子はパチンコ球くらいの大きさで小田原辺りをクルクル回っている状態だったのです。
それは全体から見ると構成比率は10万分の1でしかないのです。と言う事は、その原子が集まって出来ている「この世」の物質は、スカスカの隙間だらけで、ほとんど実態の無い物という事になってしまうのです。
現在はこの原子核でさえどんどん細分化されてきていて、更に追及すると、粒そのものもボヤけ揺らぎはじめ、「個であると同時に波の様」になって正確な存在位置や運動スピードも分からなくなってきます。 従ってこの現実世界では物質の究極的な実態は何もつかめず、結局は真の物質など存在しないと言うことになって来るのです。
原子核の内部構造や、電子の運動を突き詰めて体系化しようとしたのが量子力学です。
量子力学ではミクロの物質は「粒子であると同時に波でもある」という認識が必要となって来ます。ミクロの物質は個としての粒子でありながら、同時に波のように宇宙の隅々まで非局所的に広がっていたのです。 つまり、たった1個の粒子が宇宙の隅々まで存在を広げて、逆に宇宙全体が1個の粒子へ向けて収斂されている事になるのです。
これは、海の中に小さな氷の粒々(粒子)があると考えると分かり易いです。小さい氷の粒が溶けてしまう最後ギリギリの瞬間、個としての粒子であると同時に波となって広い海に同化してしまい、海の隅々まで存在を広げてしまうのです。
という事は私達を含めこの世に存在する物質は局所的に隔絶されて偏在しているのではなく、波として宇宙的な広がりで非局在的に存在していると言えるのです。 こうした背景から、量子力学の父と言われるニールス・ボーアは「人の意識が現実を創造し、客観的な事物は存在しない」と言明したのです。
ミクロの世界では「思い」のエネルギーが素粒子の創生や消滅に直接的に関与し、そこに現実としての森羅万象が生じてくるというのです。
この世の森羅万象は波動が基本となっていて、それらが私達の五感を通して脳に電気信号で入力され、波が収束して個々の現実として認識されてきるとも言えるでしょう。
これを量子力学では「波束の収束」と言います。
祈り
「祈り」とは「意識(思い)を集中する」事です。 どんな民族や宗教にも古くから存在し現代まで続けられています。
これは、人の思念のエネルギーが「現実(願望)を創造(実現)する」事を人々が暗黙裡に知っていて無意識のうちに利用していた事を示しているのではないでしょうか。
そして、量子力学は「祈り(意識の集中)」が単なる、宗教儀式ではなく「現実を創造し、願望を実現する」事を物理的に証明したのです。 空海は「真言は不思議なり、観誦(かんじゅ)すれば無明を除く、一字に千理を含み 即身に法如を証す」と言っています。これは「真言を唱えて、祈りを祈る事によって、数々の奇跡や不思議(現象)が生み出されるのが密教である」と言う事です。密教では「私達人間それぞれに大宇宙が含み込まれており、この自分が宇宙そのものであり、宇宙そのものが自分自身である」と教えており、これは正にフラクタルの概念だったのです。
同じことを仏教では「三界(現世)は唯心の所現」と表現しています。
これは、この世の一切の現象は自分の心が作り出した仮想の世界で、自分の想念を変える事で世の中(仮想の世界)はいくらでも変える事が出来ると言っているのです。
数千年の歴史を有している仏教(近代科学はたかだか百数十年)の仏典とも言える「般若心経」はキリスト教の聖書に当るものだと言えます。
そしてその中に、量子力学がたどり着いた結論と全く同じ様な事が、この世の真理として書かれていたという事が分かってきたのです。
般若心経の中では「色即是空・空即是色(しきそくぜくう・くうそくぜしき)」と教えています。ここで言う「色」とは宇宙の森羅万象、あらゆる物質存在を指しています。そして「空」とは宇宙(空間・真空)の事なのです。
つまり「この世のあらゆる物質存在(色)を生じさせている究極物質こそ空間(空)であり、万物(色)はまた空間(空)に還ってゆく」と言っていたのです。これは空間(空)を海水に、物質(色)を氷山と考えると分かりやすいと思います。 そして量子力学で言われた、ミクロの物質が個であると同時に波であるという概念も、氷山の表面が海水と溶け合う瞬間、あるいは海水が氷へと凝縮する瞬間を考えれば立派に成立してくるでしょう。
ユングの集合無意識
心理学者カール・グスタフ・ユングも同様の事を「集合無意識」と言う概念を使って説明しています。
彼はまず、心を3つのレベルに分けました。
表層意識(自我意識)・深層無意識・類心的レベル(原始心像)です。 人各々の深層無意識は人類全体の心の奥底で1つに繋がっていて「集合的無意識」を形成し、それがさらに宇宙的な集合的無意識に同調する事で人類は進歩してきたと言います。
この集合的無意識の発見こそ彼の最大の偉業だと言っても過言ではありません。
表層意識は私達の主観的な領域(思考)です、私達の常識もここで考えられます。
深層無意識は表層意識が手を出せない神的な領域で真の人格そのものです。
原始心像は神と人間との深い係わり合いに関係する最古の知恵が埋没する膨大で無尽蔵の宝庫です。
人類の集合無意識の概念をリンゴに例えて見ましょう。
私達の主観的な表層意識(思考)はリンゴの皮の部分に相当します。
その皮のすぐ内側にある果肉が深層無意識で、外からは見えませんが豊かな知恵が詰まっています。そして、芯の部分が原始心像で、ここには生命の種が神に封印されて存在します。ここにこそリンゴ(人類)の究極の秘密が隠されているのです。神の意図が命の種としてしまい込まれているのです。
各々のリンゴの実(私達1人1人)は木の枝(集合無意識)を通してお互いに繋がっていて更にその木も大地(宇宙的な集合無意識)に根を下ろし地中を通して他の木々と繋がっているのです。 つまり「1つ1つのリンゴ(私達1人1人)は個々に分断された独立した存在では無く一連に繋なっている」と言うのです。
ユングも量子力学で言う「宇宙の全ての存在は非局所的に一連に連なった物だ」と同じ事を言っていたのです。リンゴが木から落ちて腐っても(人間が死んで肉体が消失しても)、種(原始心像)は土の中に同化して新たな生命を生み出します。 これが、仏教で言う輪廻転生となる訳です。
ユングは「黄金の華の秘密」で次のように言っています。「錬金術師達は物質の秘密を探求しようとして、自らの無意識を物質の中へ投影したのです。そして、実験者は自己の無意識の投影を物質の変容として体験したが、実際に彼らが体験していたのは、自分の無意識の投影そのものだったのです。」 つまりこの世の世界は(物質は)深層無意識が物質存在として投影された世界と言っているのです。
そして、自伝の中でこんな事も言っています。
「私の一生は無意識の自己実現の物語である。無意識にある物は全て外に現れようとする。」
彼は無意識エネルギーの存在するであろう場所を「心(ゼーレもしくはプシュケー)」と呼びました。
「そして、無意識(心)は私の内側に納まっているのでは無く、むしろ無意識(心)が私に現れる。という事は同じ無意識(心)から沸き起こるエネルギーが木となり、鳥となり、世界と響きあっている。 心の深い深い奥底では宇宙全体と響きあっている。その心がこの私を場として自己を表現する。私達が人生だと思っているのは、実は誰か(無意識)によって見られている夢ではないか?」
これがユングの見た人生の姿だったのです。
チベット死者の書
チベット死者の書にも「これらの存在は全て幻影のような物です。どんなに見えていても存在しない物なのです。
――中略――実在しない物があるように見えているのです。
これらは全て、私自身の心が投影された物で、心それ自体に実体が無いように、もともと存在しないものなのです。」と書かれています。
哲学者ルネ・デカルト
「近代哲学の祖」と呼ばれるルネ・デカルトは同じ事を「我思う、ゆえに我あり」と表現しました。
デカルトは「考えることで我はある」としました。 では、考えていない時はどうなるのでしょうか?
デカルトは、「考えていない時は、自らはいない時なのだ」と言います。
つまり、思考を停止すると「私」と言う「個」は無くなって宇宙と一体化するといっていたのです。
自らを自らとして見出していない状態、すなわち「考えていない状態」とは、そもそ「我がいる」という状態ではなく、「まったく未確定な状態」なのだというのです。 従って、デカルトの定式「我思う、ゆえに我あり」は、常にいつでも成り立つのではなく、私が考えているとき以外は成り立たないというのです。
ここから、デカルトは「我」とはすなわち「身体」なのではなく、「思考」そのものなのだと考えるに至るのです。
宇宙の常識(真理)とは
こう見てくると、幾何学も物理学も宗教も哲学も心理学も医学も生物学も競技(スポーツ)も文学も・・どんな世界でも突き詰めると結局は同じような結論に達するようですね。
真理を求める切り口は色いろありますけれど、結局たどり着く真理は1つという所でしょうか。
その真理とは何とシンプルだったのでしょう?
それは大まかに以下の3つ位にまとまってしまいます。
- 宇宙の全てが一体で結ばれている。
- 人の意識が現実を創造している。
- この世の現実(森羅万象)は実体の無い仮想現実で真実世界は自分の内(心)にある。
インターネット
これは、近年急速に普及したインターネットの世界も同じような構造になっています。 「私達」を「パソコン」、「宇宙」を「インターネット情報網」と考えてみると見事に一致しています。 比較して見ると次のようになります。
パソコンの世界では
- 全てのパソコンはインターネットと言う無限の情報網で繋がっていて、その一部でもあります。
- パソコンそれぞれが(検索エンジンで)問いを発すると、それに対する答えがインターネットと言う無限の情報網(宇宙)の
中から現実?として画面に現れてきます。
- その画面上の世界は実体のない世界です。
私達に言い換えると
- 私たちは皆、無限宇宙と繋がっていて、その一部でもあります。
- 人が意識すると、無限宇宙の中から意識に沿った現実?が現れてきます。
- この世は仮想現実です。
どうですか、そっくりではないですか?インターネットは私達の現実世界とパラレルな世界だった訳です。道理で、爆発的に浸透するわけですね。
どう生きるか
では、この3つの原則を元に私達の生き方を考えて見ましょう。
「この世はバーチャルな仮想現実」と考える事で、生きることが楽になって来ませんか?
これが空海の言う「執着心から脱する」秘訣です。
周りの出来事全てが仮想現実であるならば、人を憎んだり、怒ったり、恐れたり、嫉妬したり、人目を気にしたりする事、地位や名誉にすがりつく事、高価な物質に対する所有欲・・・などがどんなに馬鹿げた事かが分かってきます。 丁度、夢の中で喧嘩して怒ってたり、勲章をもらったり、ブランド物をかき集めたり・・・しているのと同じ事なのですから。
でもこの事を、現実逃避と勘違いしないでください。現実逃避とは正に自分を避ける事に他ならないのです。そうではなくて、今、この瞬間の世界を一生懸命生きる事、つまり今の自分の内をしっかり見つめる事が大切なのではないでしょうか。
私達が悪い事を思えばそう言う事が、良い事を思えばそう言う事が現実となって現われてくるのです。言い換えると、自分に起きる事は良いと思える事も、悪いと思える事も全て「自己責任」と言う事にもなります。
同じ東京の同じ地区に住んでいながら皆それぞれ住んでいる(見えてる)世界は違います。「東京は人情味があっていい所」だと感じている人もいれば、「犯罪が横行している危険な所」だと感じている人もいます。東京は「暖かく素晴らしい所だ」と感じている人は正にその人自身がそういった心を持っていると言う訳です。 意識した世界が現実となって現われてくるのであり、またその世界の中心でもあるのですから。自分自身を過小評価せずに私達の持っている力を正当に評価しようではないですか。私達には皆、生まれつき無限の可能性が備わっているのです。誰しもが小宇宙なのです。人間の作った地球での一時的な常識(宇宙・自然の中での非常識)にではなく、自分を信じて大きな宇宙に繋がる潜在意識からの閃き、直感(宇宙の常識)に完全に身をゆだねる事が、楽にたのしく、より健康に生きる秘訣では無いでしょうか。 目には見えない常識という心の壁で自分の無限の可能性を閉ざしてしまうと、折角の閃きを頭で色々考え判断してしまいます。そして常識からはみ出していると、「人に変に思われたらどうしよう」などと言った不安や恐怖心とらわれて自分に自身が無くなってしまうのです。私達自身1人1人の心の平安こそが世界平和に繋がって行くのです。
私達が各々の未来を創造して行くのと同じように、人類全体の集合無意識が地球の未来を創造して行くのですから。
(フラクタルですよ!)
マンダラ原理と生き方
最後に、マンダラ(本質を表示(表現)せるもの)の原理と言う観点からの生き方を考えて見ましょう。 マンダラでは人間は宇宙へ投射され、宇宙は人間の中に投射されます。このような相互浸透は、今地球上で顕著になって来ている様々な両極的傾向の統合です。 マンダラの原理は「中心の原理」と言う常に変わらない原理の中にあります。時間の中心は現在です。この永遠の現在と自分の中心を現実化する事とは同時に起こります。完全に現在に生きていると、その人の存在はマンダラのように開いていくのです。私達は肉体次元における位置だけでなく意識次元における位置によっても決定されます。中心は絶えず存在し、最初は種子として次は茎や幹として、最後には新しい種子を生み出す花の中に存在します。丁度、池の波紋のように、1つ1つ意識の瞬間は中心から広がって行き、中心は自らの形の中に宇宙のあらゆる物質的・非物質的現象の配置を含んでいるのです。 ユングはこのマンダラの概念を研究に取り入れ広く知らしめたのです。私達の意識を規定している基本的性質は対照です。意識の本性を図式化した太極図の象徴に見られるように陰と陽という2つの根本要素は同時生起の対照によって存在します。陰と陽は2つあってはじめて存在し、2つ合わさってはじめて1つの全体を形成します。片方だけでは存在できません。
太極図
この両極性は意識のみならず現代社会構造の基礎となっています。 光と影・生と死・男と女・強と弱・善と悪・黒と白・・・。私達はこれが絶対的なものだと誤って考えられがちです。 それは私達の意識が限定されているからです。その限りでは私達の目にとまり、経験されるのは両極性だけです。両極性の共通基盤である中心についての知識が無ければ、経験されるのは、自ずと生じる無数の敵に対する絶え間ない戦いだけです。 有機体は自ら中心へ向かう事により治療、成長し、外に広がって行く事が出来るのです。治療と成長は危機に遭遇した有機体がそれを乗り越えようとする時にはじめて意味を持ってくるのです。 マンダラの視点からすると、良い悪いは存在しません。どんな経験も等しいのです、自分の経験を道徳的に説明したりせずどの経験も平等に受け入れ、消化し、それから得られる教訓を理解する事が個人の務めなのです。 〜マンダラ〜
生まれたばかりの赤ちゃんは「自分が中心」です。周りに対して良い・悪いの判断もしません。「今この瞬間」のあるがままを経験して成長して行きます。昨日の事を悩んだり、明日の事を心配したりもしません。誰しも、まだ常識と言う壁が無い時「永遠の現在」を「自分に中心」を据えてしっかり生きていたのです。そこには両極性の概念もありませんでした。
私とは
以前、竹村健一さんが「僕の肩書きは竹村健一だよ」と言っていたのがとても印象に残っています。 そう、私のブランドは「私」であり私の肩書きは「私」なのです。外からとって付けるものではありません。この世界の全ての中心は私だったのです。自分をしっかり中心据えて、自分に自信を持って大自然(宇宙)との繋がりを感じ(身をゆだね)、両極性の概念を手放せば不安や恐怖も乗り越えられるのでは無いでしょうか。 さあ、常識に囚われないで、自分の人生を楽しむとしましょうか。それが結局はこの地球を良くしてゆく事、世界を変えてゆく事にも繋がるのですから。
【参考文献】
- 医学・生物学とフラクタル解析:品川嘉也 瀬野裕美/東京書籍
- マンダラ:ホセ&ミリアム・アーグエイエス/青土社
- 海の記憶を求めて:ジャック マイオール/翔泳社
- ビックウォールクライミング:ダグ・スコット/山と渓谷社
- 弓と禅 改版:オイゲン・ヘリゲル/福村出版
- 精神と物質 改訂版:エルヴィン・シュレーディンガー/工作舎
- 「死ぬ瞬間」と臨死体験:E・キュブラー・ロス/読売新聞社
- 宗教と科学の間:湯浅 泰雄/名著刊行社
- チベット死者の書:河邑厚徳 林由香里/NHK出版
- チベット死者の書の心理学:C・G・ユング/創元社
- 死後の世界を突き止めた量子力学:コンノ ケンイチ/徳間書店
- 般若心経は知っていた:コンノ ケンイチ/徳間書店
- ユングは知っていた:コンノ ケンイチ/徳間書店
- Mega Brain(New tools and techniques for brain growth and mind expansion):Michal Hutchison
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