医学を超えて人間の健康を追求する人生の処方箋

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病気・障害

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始めに病気(末期癌)障害(先天性障害)寝たきり老人知的障害・精神障害
人生の終末期福祉体制ハンディキャッパデ健常者の障害者に対する考え方

始めに

西洋医学の発達で、今まで命を落としていたような病態の人が助かったり、症状が緩和されている様になったのは間違いない事実ですが、一方で西洋医学的介入が行き過ぎる事による、誘発分娩や延命処置など自然に逆らってるのでは?と思わせるような医療が行われているのもまた現実でしょう。
西洋医療は肉体を機械的に捕らえた医学ですが、人間は機械的な肉体ではなくmindやspiritも兼ね備えていて数値やレントゲンで表せない所が沢山あります。 心の変化、生きる意欲、喜び、悲しみ、情熱、感動、愛情、憎しみ・・・・。 今の西洋医療の限界を乗り越えていく1つの鍵は、私達の『病気・障害・死』に対しての考え方や捉え方を、健常者からの一方的な判断ではなく、当事者としっかり向き合うことで、改めて考え直してみる事にあるのではないでしょうか。
ここでは「病気や障害」と言うものをただ悪い物であるとして扱うのではなく、大きな病気をした事、障害を負った事を当事者の目線で見つめ直してみたいと思います。 そこには健常者が抱いていた世界とはまったく違う世界があったのです。 私は医学生時代、人間の肉体について生理学、生化学、解剖学など勉強して行く中で、「人間の体というものは何て完璧で精妙に作られているのだろう!」とつくづく思いました。
「人体は小宇宙である」と比喩される様に、とても人間が真似しても作れるような代物ではありません。 実に絶妙で精巧に全てが完璧に作られているのです。 そうであるならば、病気や障害でさえもこの絶妙なシステムの1つの作用・役割と考えるほうが自然なのかも知れません。
三重苦を背負った障害者ヘレン・ケラーはこんな言葉を残していました。 私は、自分の障害を、神に感謝しています。
私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つける事ができたのも、この障害を通してだったからです。

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病気(末期癌)

病気:精巣腫瘍(癌)自転車競技チャンピオン:ランス・アームストロングさんのケース

ランス・アームストロング1971年アメリカ生まれの

彼は21歳で史上最年少で世界自転車選手権で優勝するなど順調に世界の一流自転車選手の道を歩んでいました。
しかし、1996年25歳で精巣腫瘍(癌)を発病。生存率20%以下という厳しい状況にありながらも、苦しい闘病生活を乗り越え1999年に自転車レースの最高峰ツール・ド・フランスで個人総合優勝し奇跡の復活を遂げます。その数ヵ月後には、癌発病直後に精子銀行に預けていた精子によって愛息を授かります。
2000年のツール・ド・フランスでも優勝し偉業の2連覇を達成、同年開催のシドニー五輪にもアメリカ代表に選ばれたのでした。
病気を通して彼はどう変化していったのでしょう? 早速、彼の心の動きを見てゆきましょう。
幼少時よりトライアスロンに興味を持ち、13歳にして全米のチャンピオンになりました。母子家庭でしたので、母を助ける為、お金を稼ぐ為にトライアスロンに出続けました。 自転車の練習は一般車道で行っていましたが、ある時自転車を夢中で飛ばしていると横から車に跳ねられ大怪我を負う事になりました。 それは脳震盪、膝捻挫に加え、頭・足を数針縫う程の大怪我でした。当然暫らくは入院し絶対安静を言い渡されたのですが、レースに出たい一心から医者のストップを無視して6日後にはトライアスロンの試合に出場していたのです。
その後も大きなレースで勝ちつづけ高校生の時には自分でスポーツカーを買っていました。毎日何時間も自転車に乗り、皆でキャンプに行く時も100kmの道のりを一人だけ自転車で往復しました。 この頃はどのレースに出ても絶好調でした、ただ戦術、テクニックと言う物は無くただがむしゃらに自転車をこぎ続けたのです。 時速30〜60kmで走り続け、1日10〜12リットルの水分を失い6000kcalのエネルギー消費、自転車上で水分、棒キャンディーをむさぼり何があっても止まらない、例えトイレであっても・・・。
そしてついにプロになりました。プロ最初のレースでは悪天候の中110人中50人棄権し、最下位でGoal。自転車競技の厳しさを嫌というほど思い知らされ、もうやめようかと思いましたが、ここで多くの事を学ぶのだと言われ思い留まります。 そしてレースをこなして行くうちにレース界のマナーや戦術、駆け引き等を学んでいったのです。
だんだん数々のレースでも勝利を収める事が出来る様になりました、そしていよいよ世界で最も苛酷なレースと呼ばれる「ツール・ド・フランス」に出場する事になります。
これは200人もの選手が夏の暑いさなか山岳を含むフランス全土を3週間に渡って走りつづけるというレースなのです。このレースでは素晴らしい心の高揚、極度の苦痛、悲劇、事故、不運、雨風、信じられない美しさ、うんざりする無意味さ、試練など色々な事を体験します。
これは単なる自転車競技では無く、人生を象徴する物でありました。この大会で、良きライバルが事故で死ぬと言うアクシデントにも見舞われたのです。
レース後暫らくして、だんだん精巣が腫大して来ました。病院へ行き精査した所、精巣癌と聞かされたのです、しかも肺にも転移があると言います。精巣癌の第3期(肺などの致命的臓器に転移がある)であり、その中でも一番悪性度の高い絨毛癌であったのです。
これを聞かされた時、あらゆる物の基準が一瞬にして変わりました。今まで恐怖と思っていた事、人に好かれないのではないか?笑われるのではないか?財産を失うのではないか?等など生活に伴う様々な心配は単なる臆病に過ぎない様に思えたのです。癌は思ったより進行していた為、術後すぐ化学療法を行わなければなりませんでした。 母は「あらゆる手を尽くすのよ」と言いこの治療のプロジェクトマネージャーとなってくれたのです。

  • あらゆる情報を集め(文献・本・インターネット)
  • 医療記録を整理しチャート作成、スケジュール管理を行い
  • 訪問者を記録し予定表「コミュニティー・カレンダー」を作って、一度に沢山の人が来て疲れさせたり、 逆に誰も来なくて寂しい思いをしないように調整して。
  • 栄養相談を聞きにいき化学療法中はどんな物を摂取したら良いか勉強し。
  • 精神的対処の仕方を勉強した。

「今私は生きる為に戦っています。そしてきっと勝ちます」と記者会見で宣言もしました。良くなる事だけを考えていた為か1クール目の化学療法での副作用はほとんどありませんでした。あらゆる手を尽くして色々勉強して、色々な医師達(泌尿器科医、癌科医、友人の医師)に相談するうちに治療は共同作業となっていきました。「医者が全知全脳で患者は無力」という受動的な考えを改め、私も医師たちと伴に私の健康に関して積極的に責任を分担し始めたのです。
その後、データは更に悪化して行き、脳への転移も見つかりました。最悪のNewsを聞いた時、ある意味気が楽になったのでした「もうこれ以上悪い状況は無いだろう」。
この時、医師は回復する可能性は3%程度と考えていました(当時25歳)。 今までの私はレースに勝てば勝つほど強く価値がある人間になれると思っていました。ところが、どうして自分が・・他の人でなくて自分が・・ でも、「私は化学療法センターで隣に座っている人より価値があるかどうか」何て考える事自体がおかしいのでした。恐怖の体験をすると自分の弱さが分かりその人は変るのです。 この病気は私に人間としての自己を問い、これまでとは違った価値観を見出す事を強いたのでした。
そんなある日、癌を患っていると言う人から1通の手紙が届きました。 そこには「君にはまだ解らないだろうけど、僕達は幸運な人間なんだ!」 と書いてありました。 その時私は「こいつ馬鹿じゃ無いか、一体何を言っているんだろう」と思いました。 脳腫瘍の手術をしました。結果は予想以上に上手くいったようでした。気がついた時、2つの相反する感情がこみ上げて来たのです。

  • 自分が生きている事に対する感謝の大波
  • 激しい怒り(ベッドにいる事への、頭に包帯を巻いている事への、管に繋がれている事への)

これらは一方の感情無しに、もう一方を感じる事は出来ませんでした。
手術の後は化学療法が待っていました。この頃、私は治療についても色々勉強し医学用語、投与量についても理解出来るようになっていました。 私は言いなりの患者ではなく、扱いにくく攻撃的でしつこかったのです。治療の決定権を医師に引き渡すのは我慢が出来ませんでした。 私は治療に全面的に関わると主張しデータやレントゲン所見を詳細に追いました。 自分で症状をチェックし貪欲に全てを知ろうとしたのです。
そして、自分の回復をレースに見た立て考え始めました。レースで次のチェックポイントで「30秒早くなったぞ」と言ってくれるともっと早く走れる事に集中するのと同じように、次の検査で腫瘍マーカーが●●%下がった事に集中するのです。 面白い事に化学療法が進めば進むほど腫瘍マーカーはストレートの下降線を描いていきました。あまりに急速だったので医師たちも面食らっていたようです。
私はそれでも医療スタッフに質問を続けていましたが、その内容が変って来ていました。最初の頃、質問は全て自分に関する事に限られていたのですが、今では自分意外の人の事について質問する様になっていました。 同病の患者達と強い仲間意識を持つ様になり自分の体験を他の患者に話すようになっていました。
健康が回復するにつれ、個人を超えた大きな目的を感じる様になって来ました。 この頃になると、私は癌を「他の人達の役に立つ為に与えられた物」と考え始めていたのです。
これまで思ってもみなかった他人への奉仕の使命を感じ、それを何よりも大切にしたいと考えるようになっていました。 私の役割は癌の生還者としての役割であって、自転車での功績や評価とは関係無くなっていたのです。
この頃ある友人から次のような事を言われました。 「あなたはこのタイプの病気にかかる事を運命づけられていたのだと思いますよ。一つにはきっとあなたはそれを克服する事が出来るから。もう一つはあなたの人間としての可能性はただの自転車選手でいるよりもっと大きいものだから。」
私は癌基金を設立したいと思いました。 私がこの数ヶ月に対処してきたあらゆる問題を明らかにする事で癌は第2の人生、内的生活、より良い生活への道になりうると言う事を伝えたいのです。

  • 恐怖とどの様に立ち向かうか
  • セカンドオピニオンの重要性
  • 病気に対する詳細な知識
  • 治療における患者の役割
  • そして何にも増して、癌は死刑判決とは限らないと言う考え

退院する頃には全ての数値が正常に戻っていましたが、今後も定期的な検査が必要でした、特に最初の1年が再発するかどうかの鍵だったのです。
多くの運動選手は富、狭い視野、エリート意識によって世界と隔絶しています。しかし、運動選手の良い点は人間の力がここまで出来ると言う可能性を示すことが出来る所であります。
人々が限界と思える物は実は単なる心の中の障害に過ぎないのかもしれないと考えられる様にする事なのです。 私達が人間の可能性について知らない事はあまりにも多い、そしてそのメッセージを広める事は運動選手である自分にふさわしい役割だと思ったのでした。
退院後も、この先どうなるのかと言う不安にさいななまれ続けました「生きるのか?死ぬのか?」。 風邪をひき体調を崩す度に再発ではないかと不安になります。 奇妙に聞こえるかもしれないですが、癌であった時の方が今より楽だったのです。 少なくとも治療中は目指す目標があったから・・・、今はただ、再発を恐れているだけで、無気力にあふれていました。
1年を過ぎると今後再発のリスクは非常に少なくなると言われました。 1年をとうとう乗りきり、トレーニングを再開し目覚ましい回復を見せました。
カムバックレースに参加した所、14位という病み上がりにしては好成績を上げ注目も浴びましたが、私としては満足できるものではありませんでした。 あまりにも、勝つ事に慣れてしまっていたのでした。
以前のような走りが出来ない為、自転車は引退して何か他の事をやろうとも考えましたが、結局は何をするでもなくゴルフして美味しい物を食べて怠け者生活を送っていました。
そんな私を見かねて友人が、かつて私が優勝した思い出の山でのトレーニングに誘ってくれました。思い出の山での上がり坂をこいでるうちに自分の人生全体が見えたのです。「僕の人生は長く辛い上り坂を上がる為にある」そして山を上りきった時私の心は復活しました。
その後自転車に乗る日々を楽しみました、それからというもの参加したいくつかのレースで、いづれも上位に食い込む事が出来たのです。そして再び最も苛酷といわれるツール・ド・フランスに焦点を絞りました。
たった2cm幅の車輪で110kmのスピードで走る、ちょっとしたミスが命取りにもなる。そして途中で色々な事故も起きる。 観客が飛び出して来たり、気ちがいが妨害して来たり、マスコミの集中攻撃、ドーピング検査、雨風、急勾配。 幾多の困難を乗り越え、ついに私は優勝したのでした。
「ツール・ド・フランスの優勝者」と「癌」のどちらを選ぶかと聞かれたら私は「癌」を選びます。 それは「癌」が人間としての私に掛け替えのない物を与えてくれたから。
この頃やっと以前貰った手紙の意味が解るようになっていました。「君にはまだ解らないだろうけど、僕達は幸運な人間なんだ!」
癌の子供達は大人より治癒率が高い。 大人は失敗について知りすぎているし、あきらめ、恐れる。子供は生きる事、生きて遊ぶ事だけを願っているのです。 子供は治癒率という数字にとらわれない、自分が癌である事すら関係無いのです。 病気が私に教えてくれた事のなかで確信を持って言える事は 「私達は自分が思っているよりずっと素晴らしい人間だという事でした。危機に陥らなければ現れないような、自分でも意識していないような能力があるのです。
癌のよう苦痛に満ちた体験に目的があるとしたらそれは、私達を向上させてくれる物なのです。癌は生きる事の一部なのです。」
癌(Cancer)と言う言葉を使ってこんな事を考えて見ました。
Cancerとは、

  • Courage  勇気
  • Attitude  心構え
  • Never give up あきらめない
  • Curability  治癒可能
  • Enlightment  知識を深める
  • Remembrance of my fellow patients  仲間の患者を忘れない

そして、私は翌年再びツール・ド・フランスで優勝したのです。

ランス・アームストロング

【ただマイヨ・ジョーヌのためでなく(It's Not About the Bike)ランス・アームストロング著/講談社】
「もう全てお任せするしかありません、お願いします。」これは病院で私が良く耳にする言葉です。多くの患者さんは、簡単に自分の命を人(医者)に預けてしまいます。
大病を克服したランス・アームストロングは、自ら積極的に自分の体・命に責任を持って対処しようとして、決して自分の命を人(医者)に預ける事はしませんでした。 これは自分の命にしっかりと自分で責任を持つと言う事です。
そしてしっかりと積極的に病気と向き合っていく中で、だんだん病気に対する考え方が変って行き、最終的には病気になった事で人間的に大きく成長して行ったのです。
そして健常者からすれば考えられない事に、この大きな病気をした事を誇りに感じていたのです。 逆に考えると、こういった成長・変化を促す為に自分で病気を生み出し、成長・変化した時点で病気が役割を終え、消えていったのかも知れません。 癌の発生と性格の研究では、癌になりやすい人の特徴として、以下のような傾向が指摘されています。

  • 対人関係に傷つきやすく、孤独に逃げ込み易い傾向。
  • 悲しみや不安等の不快感情を無理やり抑え込もうとして、不平、不満を言わず、周囲に自分を合わせようとする傾向。
  • 慢性的に抑うつ的で、幸福感が低く、社会的に孤立しがちな傾向。

そして、癌を克服した方は「むやみに癌を恐れず自分の内なる声に従って生き行動する事」「精神的に安定し未来に夢を持つ事」が治癒の鍵だったとも言っています。

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障害(先天性障害)

障害:先天性四肢切断 乙武 洋匡さんのケース

昭和51年、東京生まれ。世田谷区立用賀小・中、都立戸山高を経て、早稲田大学政経学部卒業。
先天性四肢切断という障害を、単なる「身体的特徴」と考えて、「自分にしか出来ない事」=「心のバリアフリー」に少しでも貢献する為、電気車椅子にのって全国を飛び歩いています。
障害を彼はどのように捉えているのでしょうか? 早速、見てゆきましょう。
昭和51年4月6日、生まれつき手と足の無い男の子が生まれました。 出産直後の母にこの事を知らせるのにはショックが大きすぎるという配慮から母と僕は1ヶ月間会う事が許されませんでした。
いよいよ僕と初対面の瞬間、母は「かわいい!」と誰も予想しなかった反応を示したのでした。 母が僕に対し初めて抱いた感情は「驚き」「悲しみ」ではなく、「喜び」だったのです。
障害を持った子供の親は、その子を家に閉じ込めて隠してしまう事もあるそうですが、僕の両親は逆に近所の人に知ってもらおうと、いつでも僕を連れて歩きました。 僕の通った幼稚園の方針は、基本的に子供の個性を尊重する事だったので、全員そろって「次は何をしましょう。その次は何をしましょう」と言う事はありませんでした。 友達はすぐに出来ました。
まず「電動車椅子」と言う変なマシーンに集まる、それに乗っている奴は手も足も無い! 当然みんな不思議がって「どうして、どうして?」となる。
「ママのお腹の中にいた時に病気になって、それで僕の手と足が出来なかったんだ」と説明すると皆納得して、以降は仲良しになってしまうのでした。 このお陰で、私は常に友達の輪の中心に位置していました。
両親の、幼稚園でリーダーを気取り周囲を仕切っていたこの子に「普通教育を受けさせてやりたい!」と言う強い願いの下、用賀小学校への入学を許可されたのでした。
担任の先生も毎日僕と接する中で、四肢欠損児を扱っているという感覚から自分が受け持っている38人の内の1人と言う感覚に変っていったようでした。 たいていの障害者の場合、授業中は黙って席についていれば45〜50分がすぐに過ぎて行きますが、休み時間になると、クラスメイトが楽しそうに遊んでいても仲間に入っていけません。そうなると、より強い孤独を感じるようになり、ただただ休み時間が早く終わらないかと願うばかりになるのです。
でも、僕は他の子供達と同様、休み時間が一番の楽しみでした。遊びの内容も野球、サッカー、ドッジボール等、皆となんら変る事がありませんでした。皆と全く同じようにやるには無理があります。しかし、だからと言ってその遊びを止める必要はありません。僕も参加出来る様な「特別ルール」があればいいのです。 それは「オトちゃんルール」と呼ばれていました。野球では、皆は外野を越えたらホームラン、オトちゃんは内野を越えたらホームラン。サッカーではオトちゃんがシュートを決めたら一気に3点。と言う感じです。
皆は「あの子は障害児でかわいそうだから、一緒に遊んであげよう」と言う気持ちでこうしたルールを考え出してくれたわけではありません。クラスメートの1人として喧嘩をするのも当たり前、一緒に遊ぶのも当たり前だったのです。僕は一番好きな授業は何?と聞かれると「体育!」と答えていました。 鉄棒、縄跳び、マラソン、水泳、山登り等なんでも挑戦しました。 そんな僕に先生は「そうか、何も全く同じ事をさせる必要は無い、乙武が出来る範囲で、皆と同じ事をすれば良いんだ」と気づいたのです。
皆も、僕を理解してくれ、「オトちゃんだって、ハンディをつければ何にでも皆と同じように参加出来る」と言う事を知って行ったのでした。 そして、小学校の高学年になると担任の先生が変わりました。前の先生が「特別扱いせず、出来る限りの事は皆と同じ様に」と言う考えだとすると、新しい先生は「皆と同じようにする事が出来なければ、他の事で補えば良い」と言う考え方でした。
これは単に考え方の違いと言うだけでなく、高学年になるにつれて周りの友達が著しく成長してゆくので「皆と同じ」に出来る事が少なくなって来たと言う事を配慮しての事だったと思います。 運動会では今まで徒競争に参加出来ませんでした。 と言うのも、僕がお尻を引きずるようにして走っているのを見た観客の中から、「どうして、ああいう子を皆が見ている前で走らせるのだろうか。かわいそうに。学校は無神経だ!」と言う声が上がらない保証は無いからでした。 僕自身はそのような考えこそが差別だと感じますが、障害者を見て「かわいそう」と思ってしまう日本では仕方のない事なのかも知れません。しかし、新任の先生はそんな意見に対し毅然と立ち向かってくれたのです「大切なのは、観客の気持ちではない!」と。
当時、僕は漢字テストが得意でチャンピオンの座を保持し続けていました。
そんなある日、いつも2位につけていた子が挑戦してきました。
「次のテストではオトには負けないんだからね。」
「僕は次もチャンピオンになるよ。」
「そうはいかないわよ。私はオトになんか、何だって勝てるんだから。」
「いや、僕には誰にも負けない物が1つある。」
「何それ?勉強なら負けないわよ。」
「ううん、そんな事じゃない。」
「じゃあ何?」
「僕には手と足が無い事!」
決して悔し紛れに発した言葉ではありませんでした。 「僕は手足が無いから僕なんだ」そんな自我が芽生えていたのかもしれません。
その頃、国語の時間に「特徴」と「特長」の違いについて学びました。 「特徴」とは「他と比べて特に目立つ点」。「特長」とは「そのものを特徴づける長所」と言う意味を持っていました。 その日以来、僕は自己紹介などで「特徴・手足が無い事」と書いていたのを「特長・手足が無い事」と書くようになったのです。
―― 僕には人に負けないものがある、それは手足が無い事。 ――
この言葉の意味を理解できる人は、そう多くは無いでしょう。 僕は普通教育を受ける事が出来て本当に良かったと思っています。 養護学校を否定するつもりはありません、障害の度合い、症状によっては、特殊な教育を必要とする場合もあるでしょう。 でも、大切なのは「その子にとって、本当に特殊な教育が必要なのか」と言う点なのです。
確かに障害を持った人間が、周囲に迷惑をかける事も出てきますが、小学校時代を思い出すと、勉強の苦手な子がいれば得意な子が教えてあげていたし、逆上がりの出来ない子がいれば出来る子が教えてあげていた、その感覚でいいのです。
足の不自由な子がいれば車椅子を押してあげれば良い、それだけで「障害者」とひとくくりにされている人達も普通の教育が受けられるのです。 僕が同じクラスにいる事は周囲にとってとてもプラスになっていたようでした。 他の子供の家では『乙武君は体が不自由なのにあれだけ頑張っているのだから、あなたも頑張りなさい』と、つい引き合いに出してくるというのです。 担任の先生も「オトがいてくれたお陰で、困っている子がいたら自然に助け合いの出来る、優しいクラスになったんだ」と言っていました。 これは的を得た事を言っていると思います。
保母をしている友人はこんな事を言っていました 「この春からダウン症の子を受け持っているの。やはり、最初のうちは子供達もビックリして、その子を遠巻きにしていたのだけれど、1〜2ヶ月と経っていくうちに、その子を中心としてクラス全体に優しい気持ちが芽生えるようになったの!」。 目の前にいる相手が困っていれば、何の迷いも無く手を貸す。常に人より優れている事を求められる現代の競争社会の中で、こういった当たり前の感覚を失いつつあります。 そんな「血の通った」社会を再び構築しうる救世主が、もしかすると障害者なのかも知れせん。
中学校ではバスケットボール部に入部した。ただ入りたいから入っただけで、僕には無理だろうか?とか皆に迷惑がかかるかも知れない?など考えもしませんでした。そして結局、左・右手ともに、それぞれドリブルをマスターした僕は、チョコマカした「超低空ドリブル」を武器に試合に出場してしまったのでした。
恐いもの知らずの僕は、生徒会役員も勤めてしまいました。そしてどんどん新しい事にもチャレンジして行ったのです。4月からは朝の「オハヨウ運動」をはじめました。皆よりも30分程早く登校し正門で待機する、そして登校する生徒に「おはよう御座います!」と声をかけるのでした。下を向いている生徒に元気を出してもらおう、と言うもくろみでした。
そんなある日、話した事も無い後輩の女の子から始めてのラブレターを貰ったのでした。 「先輩は私の事を知らないと思います。でも私は先輩を知っています。私は毎朝先輩の『おはよう!』と言う挨拶で、朝からとても爽やかな気分になります。・・・大好きな先輩・・・。」ごく普通の後輩が先輩にあこがれる「あの」パターンでした。
それまでは、学校生活などを共にし、コミュニケーションを図ってゆく中で「乙武君ってこういう人なんだ」と分かってもらえれば恋愛にだって発展すると考えていました。「僕にだって手と足さえあれば」と言う思いが無いわけではありませんでした。でもたった1通のこの手紙がそんな思いを吹き飛ばしてくれたのです。
「何だ、僕にも普通の恋が出来るじゃない!」と恋愛に自信が持てるようになったのです。恋愛に障害は関係ないと言い切るつもりも無いし、障害者の恋愛にハンディーがあるのは事実だと思いますが、大切なのは「障害を言い訳にしない事」だと思います。
絶世の美女であっても叶わぬ恋をするではないですか。何よりも、障害に対する自分の捉え方、考え方が何よりの妨げになっているのではないでしょうか。
そして、難関戸山高校へ入学すると、アメフト部に入部しました。 この時も入りたいから入ったので、そこに「障害」の2文字は浮かんで来ませんでした。アメフトは「体」である肉弾戦と同時に「知」の戦略面が重要なスポーツでした。体のぶつかり合いが激しいので、選手として活躍するわけには行来ませんでした、そこで対戦相手のデータ収集、まとめ、分析が僕の役目として活躍しました。 そのかいあってか戸山史上2度目の快挙である都大会優勝まで導いたのでした。
9月の戸山祭で3年生は映画を作製します。僕が助監督を務め、映画作成がスタートしました。テーマは「死」です。 この年に開催された「全国高校演劇大会」で最終選考まで残った16校の大半が「死」をテーマにした作品を扱っていて、当時の僕らがいかにこの問題に関心を持っていたかが分かります。
作品のあら筋はこうです。「高2のトオル、姉の自殺に加え、父を酔った末の喧嘩で亡くし生きる意味を見出せなくなっていた。そんなある日、最愛の恋人が事故で病院に担ぎ込まれます。動揺するトオルの前に死んだはずの父が現れこんな事を言います。『人間は一滴の水のようだ、一滴の水は大海に落ちてしまえば、その存在が分からなくなってしまう位ちっぽけな物、だが、その大海は、その一滴一滴の水から成り立っているのだ。それは人間も同じ、お前1人いなくなったってどうって事ないと思ってはいないか?だが、この世界は人間1人1人で構成されている、そして1人1人価値のある大切な生命なんだよ。』
でもこれは夢でした。恋人が意識を取り戻したと言う知らせが届き、改めて生きている事の素晴らしさを認識する」。 高校生が作ったにしては意味深い作品が出来ました。
1年間浪人の末、私立文系最難関とされる早稲田大学政経学部政治学科への入学を果たしました。 ある秋の夜長、なかなか寝付けずにいた僕はぼんやりと考え事をしていました。 これからどう生きていこうか、どういう人間になりたいのか。そこで気付いたのでした。それまで僕が最も重要視していたのは、お金や地位・名誉と言ったものだったと思います。
でもその価値観に気付かされた時、ハッキリと「そんな人生ヤダ!」と思えたのです。 大切な事って何だろう?僕の答えは他人や社会の為に、どれだけの事が出来るのか。 周りの人に、どれだけ優しく生きられるのか。 これが実践出来れば、僕の人生は幸せだったと胸を張れる気がする。 ただ、絶対に譲れない大前提がありました。それは「自分を最も大切にしながら」というものです。
「大切にすべき自分」とは、一体何者なんだろう?と考えた時真っ先に出てきたのは「障害者」と言う文字でした。
これは僕にとって驚くべき事でした。と言うのも、それまで「自分が障害者だ」と言う事を意識して生きて来た事が無かったのです。であるならば、どうして僕は障害者なのでしょう。多くの人が健常者として生まれてくる中、どうして僕は身体に障害を持って生まれてきたのだろう。そこにはきっと意味があるのではないだろうか。障害者には出来ない事がある一方、障害者にしか出来ない事もあるはずだ。
その事を成し遂げて行く為に、この様な身体に生まれてきたのではないかと考えるようになったのです。 そして次の瞬間「何をやっているんだ、自分は!」と思ったのでした。 そのような役目を担って生まれて来たのであれば、僕はとてももったいない生き方をしている事になる。折角与えてもらった障害を活かしきれていない。言ってみれば「宝の持ちぐされ」なのです。乙武洋匡にしか出来ない事は何だろう?この問いに対する答えを見つけ出し、実践して行く事が「どう生きていくか」という問いに対する答えになるはずだ。
すっかり興奮した僕は「生きる」と言う事がこんなに楽しいと感じたのは初めての事でした。こう考えるようになって一夜明けた日、新宿区清掃事務所長から「バリアフリー対策にも積極的に取り組みたいけど、君の力を是非ともお借りしたい、一緒にやってみないか」と言う誘いが来ました。
ほんの7時間程前に考えたばかりなのに、もう実践の場が与えられたのです、この流れには恐ろしい程の力が働いているとしか思えませんでした。
その後も「早稲田いのちの町づくり実行委員会」などを通して、早稲田大学にバリアフリー校舎等を実現して行きました。この活動が新聞・テレビを通して紹介されると各地から講演依頼が来るようになったのです。
「障害者ってかわいそう」と言う固定概念がまだまだあります。もちろん「かわいそうな障害者」が存在しないとは言いません。中には性格が悪く、誰にも相手にされないような障害者もいるでしょう。そんな彼らは確かに「かわいそう」ですが、それは障害から来る物ではありません。その人がたまたま障害者であったと言うだけで、人間の中身の問題なのです。 障害者の親は子供に対して過保護になりがちです。
その要因は「かわいい」と思うより「かわいそう」という気持ちの方が強いからだと思います。 親が子供の事を「かわいそう」と思ってしまえば、子供はその事を敏感に感じ取るでしょう。そして「自分はやっぱり、かわいそうな人間なんだ。障害者はやっぱり、かわいそうなんだ!」と後ろ向きの人生を歩みかねません。
僕そして僕の両親は障害をあまりマイナスに捉えていません。 子供の頃「特長」と捉えていた僕の障害は、今では単なる身体的特徴すぎないと考えるようになりました。 両親の元に生を受けた事を心から感謝したい。そして今まで育ててくれて本当に有難う。 障害を持っていても、僕は毎日が楽しいよ。健常者として生まれてもふさぎ込んだ暗い人生を送る人もいます。関係ないのです、障害なんて!
「障害は不便である。しかし、不幸ではない〜ヘレン・ケラー」
健常者として生まれた私なんかよりも、よっぽど行動範囲が広く、よっぽど色いろな事にチャレンジしているのに驚かされます。 なかなか普通の人(五体満足な人)でもここまで挑戦出来ないでしょう。
行動や活動を決めるのは、肉体的な障害があるか無いかで決まるのではなく、その人の意識の持ちようだと言う事が良く分かります。もちろん物理的に困難な環境があるのは確かですが、しっかりとした信念や意思があれば、意外とどうにかなってしまう物なのかも知れません。
目に見える肉体的障害よりも目に見ない心の障害(自分で自分の限界を作ってしまう)の方がずっと強いと言う事が良く分かると思います。健常者(五体満足)と呼ばれている人達は本当に自由で幸せな人生を送っていると言えるでしょうか? むしろ乙武さんの方が心の障害は少なく、やりたい事をやりつくして自由で幸せに生きているのでは無いでしょうか。
【五体不満足:乙武洋匡 著/講談社】

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寝たきり老人

今、先進国である日本に住んでいる私達が、普段当たり前のように抱いている『病気・障害・死』に対する考え方や捉え方は、この地球上の中だけで見ても決して『先進』であるとは言えません。 そして、その考え方や捉え方は実際に病気や障害などに直面している社会的弱者(お年寄りや精神・身体障害者の方々)に対しての扱い方に如実に現れています。
今度は少し視点を変えて日本の社会的弱者に対する現状と福祉先進国家である北欧の状況を見てみましょう。
日本の社会には多くの「寝たきり老人」と呼ばれるお年寄りがいます。

寝たきり老人推移グラフ

身の回りの事が出来なくなった老いた親。老いた妻の世話に疲れ果てた挙句の殺人や心中のニュースが後を絶ちません。 際限の無い介護地獄に疲れ果て、家庭で面倒を見切れなくなったお年よりは「死ぬまでお預かり」を暗黙の了解とした特別養護老人ホームや老人病院に預けられます。預けた家族も気がとがめてか、見舞いの足も遠のきます。
高齢者が不安で落ち着かなくなると、安定剤や睡眠薬を使って問題を解決しようとします。夜中に徘徊する方は転倒などの危険防止の為手足をベッドに縛り付けられる事もあります。彼らは一日中パジャマに身を包み、ぼさぼさ頭にうつろな表情をして、寝かせきりにされ、来る日も来る日も天井ばかり見つめる世界に閉じ込められています。「下の世話になりたくない」という誇りもオムツで台無しにされます。
ただ単調な時間が過ぎてゆき、何かしようという気力も起きず、生きている喜びは全く感じられません。次第にボケが進んで「寝たきり痴呆老人」が出来上がってしまいます。
日本よりはるかに高齢化の進んだ北欧の社会では老いた人、障害者が誇り高く生きていました。 そこには「寝たきり老人」に対応する言葉が無く、そういった概念も無いようです。日本では寝たきりになっているような人々、例えば脳卒中で半身不随になった人、重症のリウマチの人等が自宅で1人暮らしをし、車椅子に乗り、歩行器を使って歩いているのです。それも、ちゃんとお洒落(洋服・髪型・お化粧・イヤリング)にも気を配っています。家で1人でいるときに転んだり、発作が起きたり、何かして欲しい事がある時は首から下げたSOSボタンを押すと誰かが飛んできてくれるのです。街角やレストラン、商店街などあちこちで車椅子姿の高齢者に出会います。
では一体、自分では寝返りも出来ない半身不随の高齢者がどんなサービスを受けているのでしょうか?
このケースはスウェーデンの例です。脳卒中後遺症で15年前から半身不随になった75歳で1人暮らしの女性の一日を追ってみましょう。彼女は糖尿病の持病があり、狭心症の発作をたびたび起こすのですが、住み慣れた家での暮らしが気に入っています。 朝ホームヘルパーが家に来て、ベッドから助け起こします。トイレの世話をし歯磨きを助けます。今日はどの服が着たいかを尋ね、着替えるのを手伝います。車椅子に乗せ、朝食の準備をし食べるのを助け「お昼にまたね!」と言って帰って行きます。
昼になると同じヘルパーがまたやって来ます。車椅子を押してデイセンターのレストランへ連れ出します。 外出したくない日は温かい昼食がセンターから配達されるのでこれをテーブルにセットし話し相手になります。 そして飼っている猫の世話、観葉植物の水やり、曜日を決めて洗濯・掃除・買い物をします。彼女が望めば車椅子を押して一緒に買い物へ出かけます。
夕方、別のヘルパーが夕食の世話をします。 夜、夕方と同じヘルパーがやってきて歯磨きと着替えを手伝ってベッドへ寝かせてあげるのです。このサービスセンターは周囲1キロ以内に住む1万世帯を受け持っていました。そしてセンターを中心にホームヘルパーの詰所が20箇所配置され、そこを拠点に400人、33班のヘルパー達が身体の不自由な人達の日常生活を支えていました。
スウェーデンでは人口当たり、日本の43.7倍のホームヘルパーがいます(1985年前後)。北欧の国々に「寝たきり老人」がいないと言うのはホームヘルパー達が起こしてくれていたのです。日本では寝かせたきりにしているから「寝たきり状態」になってしまっていたのです。 私達は、お年寄りや障害を持つ子を世話する時、過剰なお世話をして何でもしてあげてしまいがちです。
しかし北欧の国々の福祉対策の柱の1つは「自己資源の活用」つまり「お世話しすぎて残っている能力を損なわないようにする、潜在能力を引き出して生かすようにする事」なのです。 親の介護をヘルパーなどに任せてしまったら親子の絆は薄くならないでしょうか?

寝たきり老人の割合グラフ

こんな調査結果があります。
子供と別々の家に暮らしているデンマークの高齢者1500人を対象にした調査です。 それによると「今日または昨日子供と接触した:43%、2〜7日前:36%、8〜30日前:15%、1ヶ月以上:7%でした。」 ほとんどの親子が毎日のように連絡をとりあっていたのです。 そして4割が10分以内、7割が30分以内に行ける距離に住んでいました。
北欧の国々では、寝たきりを無くす秘密は他にもこんな所にありました。 訪問看護婦は糖尿病の人へのインスリン注射、包帯交換など、医療処置をするだけではなく自立の為に何が必要か見つけ出しそれを実行します。 例えば、体位交換にエネルギーを使う代わりに、ベッドから離れて車椅子で動き回り たいと本人が思うような楽しい事を、1人1人に見つけ出そうとするのです。 訪問看護婦の人数も充実しています。
各県には補助器具センターが存在します。 そこには約3000種類の器具が揃っていて、車椅子だけでも100種類近くあるのです。 彼らが力を入れているのは、体の不自由な子供が使うとき、仲間に自慢できるようなカッコイイ補助器具、カラフルで楽しい感じのする自助具 (不自由な手・足でも使いやすい様に工夫された小道具等)知的ハンディキャップを持った子供にも操作できる電動補助器具等々でした。 動き回りたくなるような変化に富んだ暖かな空間があります。
デンマークでは施設に住むか、自宅に住むか決めるのは役所ではなく本人の意思で決まります。 在宅は本人に満足度が非常に高く、潜在能力も引き出せますし、生活の質も非常に高いのです。自宅で暮らす高齢者を支援する場としてデイセンターが歩いて通える距離の所に設けられているのです。
他に、食事サービス、送迎サービスも充実しています。 施設であってもプライバシーを大切にした個室になっています。 車椅子で動き回れるゆとりを持った居住空間があり、部屋の中は好みのカーテン、絨毯、家具、食器、絵、写真、思い出の品々、植物等が配置されているのです。 何かあった時はボタンを押せば詰所のヘルパーが飛んできます。さらに、寂しく無い様に必ず団欒の部屋、趣味を楽しむ部屋、食事を共にするレストランもあるのです。 施設や病院で「ベッドに1日中いる老人」はスウェーデン4%、アメリカ7%に対し日本は特別養護老人ホーム48%、良心的な老人病院でも64%(1989年)に及びます。 1970年代、スウェーデンではノーマリゼーションが重視されるようになり、80年代の課題はそれをもっと徹底させ、自宅に住み続けられるようにする事でした。
ノーマリゼーションとは、分かり易く言えば「どんなにハンディが重くても、普通の生活が出来る様に環境を整える」という事です。 それまでは、介護の必要度によって、高齢者を家から施設、施設から病院へと移していましたが、それにつれ1人当たりの空間狭くなり、心の負担も増えていきました。 そういう状態から、世話が必要なら、必要に応じてこちらから出向いて行く方向に変化させて行ったのです。

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知的障害・精神障害

スウェーデンは1968年に法改正をして、「知的ハンディキャップを持つ人を支援する法律」を制定し、その第5条にノーマリゼーションの原理を掲げました。
市町村は4・5人単位の「グループホーム」を普通の生活の拠点として、次々と作って行きました。 男女共同で住み、それぞれが個室を持っていて、プライバシーが何より大切にされています。
小型ピアノがあったり、スターの写真が張ってあったり、ステレオがあったり、緑一色であったり・・どの部屋も個性的です。 カーテンや家具は職員と町へ出て本人が選んで買ったものです。ここでは重い知的ハンディを持った人の為に考えられたもので、家庭的な温かさも大事にされており、施設ではなく家庭といった感覚です。 献立も余暇の過ごし方も自分で好きなように決められます。 何もしたくないと言うのも選択肢です。 職員は準家族として交代で住み込みますが、その役割は世話を焼くことではありません。
1人1人のメンバーについて何が出来るかを考え、可能性を見つけ、広げて行き、仲間と一緒に活動して行く中で計画する能力、仕事をこなす能力、評価する能力、社会性が発達して行くように支援するのが役割なのです。
普通の生活とは、それだけではありません。通勤、通学し社会と交流し、余暇を楽しみ、異性と交際します。 例えば知的ハンディを持った人たちのロックグループがいくつもあり年に1回盛大なコンサートも行われるのです。

知的ハンディの世界のノーマライゼーション:

ノーマリゼーションの思想はイタリア北部の町では、精神保健の世界に根を下ろしていました。
医師、看護婦は病院でなく精神保健センターを拠点にして患者さんを支えていました。 センターと言ってもアパートの一角を借りたり、大きめの住宅を改装したりしたもので、さりげなく町に溶け込んでいて鉄格子などはありません。 危機状態の患者さんを泊めるベッドも1つのセンターに8づつ用意されていました。
多くの患者さんは街中の普通の家に住んでいてセンターから看護婦が毎日やってきて面倒を見ているのです。 昔病院で行われていた「作業療法」は廃止されました。 その代わり「本物の仕事」を見つけたり開発したりする努力が続けられていました。 調理助手、印刷、製本、農業、家具作り、ディスコの職員・・・その職種は30種類に及びます。それらが集まって就業共同組合を作り年商4億円も上げています。 「レクリエーション療法」も無くなりました。その代わり「本物のレクリエーション活動」が行われていました。絵画、音楽、演劇、陶芸・・・。
「精神科医はこれまで人間のごく一部に過ぎない症状にだけこだわり、それを消そう、無くそうとして来ました。でも、視点を変えて健康な部分を広げて行くのが我々のやり方です」。患者を町に出したら危険だと言う予想に反し、司法精神病院送りも強制入院もここでは激減しています。
最高責任者のフランコ医師は 「医師が患者を閉じ込めれば『彼らはきっと怖い人々なのだ』と市民は思います。医師が患者と共に町で暮らせばそれが市民の常識になります。市民の排除の気持ちは行政官や医師の考え方の反映なのです。」 と呼びかけたのです。
日本では精神病院の入院患者が20年間で24万人から35万人に増えていました。 人口比でみれば世界でも稀なほど多い入院患者の数です。 しかもその7割ほどが鉄格子のついた鍵の中に閉じ込められています。 そこでは作業療法という名の内職や使役をやらされ、雑居部屋に粗末な食事、まずしい治療内容が繰り広げられます。 日本にだけ悪性の精神病が流行っているという訳ではないにの、これは同考えても妙な話です。

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人生の終末期

人生の最後に関するノーマライゼーション:

北ロンドンのホスピスにはベッドは1つもありません。ここを拠点にしてスタッフが自宅で死を迎えようという人々と家族を24時間態勢で支えているのです。 「この国の人々は、出来るだけ自分の家で息を引き取りたいと願っています。入院させたら、ご夫婦を同じベッドに寝かせる事も出来ません。家族の看病もありません。ですから私達は熟練したホスピス・ホームケアを自宅に届けるのです。」と看護婦のハリエットさんは言います。
苦しみを和らげる医療処置も出来るだけ自宅で行います。医師も看護婦も白衣はつけません、友達と言う感じで訪ねます。 自宅で死を迎える人は英国全体で30%、この北ロンドンホスピスが受け入れた患者では60%にものぼります。

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福祉体制

日本の「施設」に住む体の不自由な人達は次のような「居住者権利宣言」をまとめた事がありました。 「起床・就寝時間を自由に選ぶ権利。外出や外泊を自由に出来る権利。深夜、静かに寝る権利。1人になる権利。家族、友人の訪問をいつ、いかなる時も受けられる権利。異性と交際する権利。自分の生活を自己決定出来る権利。・・・」 どれも自宅に暮らしている人にとっては当たり前の事ばかりだったのです。
どんな人にも「普通」の暮らしを可能にしようとするノーマリゼーションの思想は英語圏にも浸透して行きました。その時、強調されたのが「自己決定の重要さ」と「危険(リスク)に挑む事の尊さ」でした。個性や潜在能力を認めない過保護は、たとえそれが親切心からであっても、人間としての尊厳を損なうと考えられたのです。
スウェーデンでは1970年の建築法改正で車椅子が使えるように配慮されていなければ、デパートやレストランや学校など、不特定多数の人が利用する建物は建築許可が下りなくなりました。ヨーロッパの国々では、避暑地でも商店街でも音楽会でも車椅子に出会います。その秘密は「障害者」が「障害」無しに暮らせるようなヨーロッパの家と町の作りにあったのです。
この様な濃厚な福祉を行うには一体どのくらいの費用がかかるのでしょうか? 福祉の充実と言っても税金が高いのではたまらない、北欧では国民負担率が70%にもなるそうではないかと言う意見もありますが。そこには誤解があるようです。
「国民負担率」には企業負担、相続税、利子税、間接税、高齢者自身が払っている税金も含まれます。 月給から70%を徴収されるわけではないのです。 直接税だけを比べてみると、日本はスウェーデンに比べ税負担がかなり低いように見えますが、社会保険料のための支出や老後・病気に備えた貯金を加えると自由に使えるお金はそんなに変りません。

直接税 社会保障料 貯蓄 合計 合計
スウェーデン 25.7% 0.3% -1.9% 24.1%
日本 8.2% 4.7% 11.5% 24.4%

(1987年)

また「国民負担率」から国民の個人個人に戻ってくる「社会保障給付」を差し引いた数字を「純負担率」「正味負担率」と言います。 これを見ると日本とスウェーデンの差もぐっと縮まってきます。

国民負担率 社会保障給付率 純負担率 純負担率
スウェーデン 73% 43% 30%
フランス 62% 38% 24%
イギリス 54% 27% 27%
日本 39% 15% 24%

日本人は税金を取られるものと考えており、デンマーク人は預けるものという感覚だそうです。 日本では銀行に預けたお金は返ってくるけれど、政府や自治体に取られた税金は返ってこないと思うのです。
スウェーデンでは政治家である事の特権はほとんど無いですし、国民の政治への関心も高く投票率は毎回ほぼ90%です。 中途半端な税額ではないですから必然的に税金の使い道にも皆関心があると言う事になります。
日本や米国、英国の社会建設の基本は競争です。 スウェーデンは生産過程は競争原理に基づく資本主義ですが、分配過程(福祉、医療、教育、等)は平等主義でやってゆくという方向性を社民党は1970年代から強く打ち出しています。
福祉を充実させると経済が駄目になる? スウェーデンの失業率は1.5%と言う低水準であり、経済も傾くどころか、むしろ景気は良いようです。1人1人の消費生活は豊かであり、平均寿命も長く老後の心配もありません。 合計特殊出生率も1983年に1.61人まで下がった後、上昇に転じ1989年には2.02人で先進国のトップです。
高い税金を嫌って優秀な人材が海外に出てしまう? 税金が高いのを嫌ってスウェーデンを出て行った映画監督のベルイマンもプロテニスのボルグもちょっと出て行ったら、すぐ返って来ました。 年をとって安心して生きられる国は、やはりスウェーデンだったんです。
スウェーデンには極端な大金持ちはまずいません。 しかし、政治や行政が手を差し伸べなくても、老後も病気も教育も何もかも自分でやって行ける人というのは何処の国でもほんの一握りしかいないのです。 大部分の人にとって福祉は欠かせないものなのです。

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ハンディキャッパデ

スウェーデンには「ハンディキャッパデ」と言う言葉があります。
これは日本語の「障害者」に似ていますが、どこか違います。 車椅子に乗った人、盲目の人はもちろん「ハンディキャッパデ」です。けれど乳母車を押して歩いている人、怪我で治療中の人、妊娠中の人、杖をついている人、大きな荷物を抱えている人も「ハンディキャッパデ」と呼ばれるのでした。
つまり「ハンディキャッパデ」とは「ある環境の下での不利な状態」を表す言葉なのです。その不利を少しでも減らす為に、環境を整える努力が日常生活の中で行われていました。 状況次第で誰もが「ハンディキャッパデ」に成りうるとこの国の人は考えているようでした。
一方、日本で使われる「障害者」と言う言葉はレッテルみたいで、どこか自分とは違う世界に住む馴染みの薄いものという感覚があります。
【「寝たきり老人」のいる国いない国 〜真の豊かさへの挑戦〜 大熊由紀子 ぶどう社】

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健常者の障害者に対する考え方

この様に見て来ると、寝たきり老人も、危険?な精神障害者も、かわいそう?な身体障害者も健常人が勝手に一方的な先入観の下に、作り出していたのではないでしょうか。
身の回りの事が出来なくなって来ると、かわいそうだから何でもやってあげる、そうしているうちに本人の残された機能も、意欲も低下してしまいます。そうして結局は自分で何も出来なくなってしまうのです。それが積もり積もって、だんだん寝たきりが出来上がってしまうのです。
例えて言うなら「魚を与えるのではなく、その人にあった魚の釣り方を教えてあげる」というのが福祉先進国である北欧の国々の考え方だったのです。 かわいそうだからと言って魚を与え続けると、結局は依存を生み出し自分では何も出来なくなってしまいます。 丁度、飼い慣らしたペットが自分で獲物を取れなくなってしまうように・・。
現代医療では、精神障害者は社会に適応できないであろうから隔離されます。 鉄格子や鍵の中に隔離された彼らは周りからは危険な人達なんだと思われてしまいます。 また、そういった追い詰めた環境に置く事で更に精神的に不安定になって、さらに危険と思えるような行動をとらせてしまうのでは無いでしょうか?
北欧の国々では、患者を町に出したら危険だと言う予想に反し、司法精神病院送りも強制入院も激減していました。そういった健常者の予想や恐怖心が彼らを、鍵のかかった鉄格子のある病室に閉じ込めていたのです。
健常者は、身体障害者を不便でかわいそうなんだ、不幸なんだと勝手に決め付けてしまいがちです。 目が悪い人が眼鏡をかけるように、身体障害者は便利な器具や整備された環境、ちょっとした周囲の思いやりがあれば、北欧の実例があるように十分自立しうるのです。
そして、健常者でも自分が不幸だと思っている人が沢山いるように、不幸かどうかと言うのは心の問題で、肉体の問題では無かったのです。こういった健常者の障害や病気に対する、一方的な見方が彼らの人権や個性をつぶして、本当にかわいそうな状況に追いやっているのでは無いでしょうか? 北欧の取り組みには色いろ考えさせられるものがありますね。

始めに病気(末期癌)障害(先天性障害)寝たきり老人知的障害・精神障害
人生の終末期福祉体制ハンディキャッパデ健常者の障害者に対する考え方